神戸空港 (マリンエア) 開港の経緯 歴史 |
神戸空港 (マリンエア) 開港をめぐる経緯 歴史神戸空港 (マリンエア) 建設計画の発端 関西国際空港建設構想神戸空港 (マリンエア)の建設計画は、1946年の「市復興基本計画要綱」に初めて登場しますが、具体的な神戸沖空港建設の計画は、1969年5月に、当時の運輸省の関西新空港建設構想に始まります 当初の関西新空港建設構想では、新空港予定地は神戸沖の他、播磨灘、淡路島、泉州沖が想定されていましたが、大都市圏からのアクセスの利便性により神戸沖が有力とみられていました 神戸沖新空港建設 反対決議 関西国際空港は泉州沖へ1972年当時は、大阪国際空港の騒音裁判も行われ、また、高度経済成長と共に社会問題となっていた公害、環境問題に対する世論の関心の高まり、成田 ・ 伊丹を契機とする、反騒音 ・ 反公害運動が活発化していたいた時期で、神戸市議会は、神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決、翌年(1973年)の市長選挙では空港問題が争点となり、当時の宮崎辰雄市長も神戸沖空港の反対を表明し、空港推進派が推す砂田重民を退けて再選されました その為もあり、翌年(1974年)に出された答申では泉州沖が最適とされました 1970年からの泉州各市と 2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議、伊丹市の大阪空港撤去都市宣言(1973年10月)等、この時期は空港そのものに対する反対がかなり強いものがあり、泉州沖の答申が出た後でも、1976年の泉州沖の観測塔設置について、「空港の建設を前提としたものではない」と大阪府知事が国に約束させる等、反対運動への配慮が求められる時期でした 大阪湾岸の自治体がこぞって反対をしている中で、神戸市は神戸沖空港に積極的と見られていただけに、神戸市議会は、神戸沖空港反対決議は大きな影響をもたらしましたが、一方、泉州は人口が比較的少なく開発余地が多いことから、当時の視点ではむしろ神戸沖以上の高い評価を得ていたともされます 現 神戸空港 (マリンエア) 計画の始まり関西国際空港の建設は、第一次答申後 5年もたった 1980年にようやく 第二次答申が出されるなど長期にわたり、1970年代後半から1980年代になると、空港に対する意識も変化し始め、大阪国際空港(伊丹空港)周辺では空港存続、神戸では神戸沖空港の再評価あるいは誘致、泉州では泉州沖促進という方向へ政策が転換されていきます 神戸においても、1982年、神戸市会が神戸空港の建設を求めて反対決議の転換書を採択し、これを受けて宮崎市長自らが運輸省に「神戸沖空港試案」を提出、泉州 11市町でも、反対決議が順次取り下げ、さらには要望決議を採択するように転換していきました 国は、泉州沖推進の立場を維持し、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定しましたが、兵庫県、神戸市を中心として、神戸沖の必要性、泉州沖の問題を指摘する活動が継続され、泉州沖への同意を渋る兵庫県が、泉州沖への同意表明を行ったのとあわせ、地方空港としての神戸空港の調査協力を運輸省から引き出し、現 神戸空港計画の出発点となります 現 神戸空港計画 全会一致の推進議決現 神戸空港の計画そのものは行政レベルでは継続的に進んでいましたが、大阪湾の水質汚濁など環境問題、近隣に大阪国際空港(伊丹空港)や関西国際空港があることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問が投げかけられ、早期から反対運動も存在し、1990年の全会一致の推進議決の際にも、議会内に空港反対の意見もありました 現 神戸空港計画 阪神 ・ 淡路大震災後神戸空港問題が大きな市民活動になったのは、阪神 ・ 淡路大震災後で、当時の笹山市長は、引き続き空港建設を明言、震災復興計画に神戸空港計画を盛り込み、「防災の拠点」として位置づけました しかし、震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく隔離しており、反発を招くこととなり、この時、笹山市長は、「市民に財政負担は一切かけない」と明言しています 笹山市長の案では、空港埋立地の売却益によって、神戸市税を使うことなく、債務を完済出来るという見通しでしたが、「神戸方式」と呼ばれた、埋め立てを中心とした土地開発行政は、その後の日本経済の減速により、次第に行き詰まりを見せ始めます 震災前から増加しつつあった市債が急増、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ 3兆円にも膨れ上がり、財政的に厳しい状況での大規模プロジェクトを危惧する声も強まり、また、他の地方空港が経営的に成功している例がないこともあって、空港反対は次第に大きな市民運動と発展していきます 現 神戸空港計画 住民投票条例案と訴訟1998年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は 30万7797人に達し、「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されますが、空港建設推進派が多数を占めていた議会で、大差で否決されました 1999年に行われた市議会選挙では、空港建設反対派の議員が増加したものの、議会構成に影響があるほどの勢力にはなり得ず(空港反対19 → 23, 推進51 → 49)、その後、市長リコールの直接請求署名運動も行われますが盛り上がらず失敗、また、1999年には、野党議員によって「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が市議会に提案されるがこれも賛成少数で否決されています 2001年の神戸市長選挙では、空港建設反対派は候補者を一本化できず、神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選、さらに建設活動や手続きが進むにつれ市民運動は沈静化、2003年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、ほぼ震災前の水準に逆戻りしました
神戸空港 (マリンエア) 開港神戸空港 (マリンエア) 開港直後の発着便数は、日本航空 (JAL)と全日本空輸 (ANA)がそれぞれ 1日 10便、スカイマーク (SKY)が 1日 7便、3社合計 1日 27便が設定されました いずれの航空会社も東京/羽田便が中心で、スカイマーク (SKY)が 1日 7便、日本航空 (JAL)と全日本空輸 (ANA)がそれぞれ 1日 2便で、東京/羽田線は 3社合計 1日 11便を占め、その他の就航先は、札幌/新千歳(3便)、仙台(2便)、新潟(2便)、熊本(1便)、鹿児島(4便)、沖縄/那覇(4便)でした 2006年9月28日、『国際ビジネスジェット』が就航したため、税関や入国管理 ・ 検疫などを扱う出入国審査室が旅客ターミナルビル 1階に設けられますが、利用申請の締切が入国時 2週間前までと早く、平日の 9時~17時のみの対応と限られる等不便な要素が多いものでした 開港 1年目の利用者数は、当初の目標を 約 50万人下回る 約 270万人で、2006年度の平均搭乗率は 60.4%、初年度に利用者数の少ない便に関しては、各社撤退や減便が行われ、期待されていたプライベートジェットに関しては、わずか 4機の利用に留まる一方、観光客利用の多い北海道や沖縄への便、ビジネス利用の多い東京(羽田)便に関しては、増便の傾向を見せます 開港 2年目の 2007年2月~2008年1月の搭乗者数も 297万人で、目標に届かず、3年目となる 2008年2月~2009年1月もスカイマークの大幅な欠航等の影響もあり、268万人で、その後も減便が予定されるなど厳しいスタートとなっています 2009年1月、スカイマークが神戸空港を「関西の拠点」と位置付け、神戸空港発着の路線を大幅に増やす中期経営計画を発表する一方、同年(2009年)9月、日本航空は国内線再編計画(グループ会社の日本トランスオーシャン航空、JALエクスプレスも含む)で、「2009年度に羽田線、2010年度に新千歳線、那覇線、石垣線の廃止」を発表、2010年5月をもって神戸空港から全面撤退しました 2012年3月、関西国際空港へのピーチ航空(Peach Aviation)の就航により、それまで神戸空港のスカイマーク便を利用していた乗客が関西国際空港のピーチ便に流れたとみられ、神戸空港の利用客は大幅減少となっています 神戸空港 (マリンエア) 年表
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