YS-11 (ワイエスイチイチ) 国産初の旅客機 とは 概要 |
YS-11 (ワイエスイチイチ) 国産初の旅客機 とは 概要国産初 ジェット旅客機 三菱スペースジェット (旧MRJ)の開発が進み、試験飛行が繰り返されている 2016年の今日からさかのぼること約50年前、国産初の旅客機として開発された 「YS-11 (ワイエスイチイチ)」が、ジェット化される前の日本の空を、主力機として駆け巡っていました
「11」の最初の「1」は、搭載を検討していたエンジンの候補にふられた番号で、実際に選定された「ダート10」の番号で「1」、後ろの「1」は、検討された機体仕様案の番号で、主翼の位置や面積によって数案が検討されており、機体仕様案の中には第0案もありました 名機と称された YS-11 が、長期にわたり運用されましたが、2006年をもって日本においての旅客機用途での運航は終了、また、2011年に海上保安庁で使われていた機体も退役、2016年9月1日現在、日本国内では、自衛隊で輸送機として運用されているのみとなりました YS-11 (ワイエスイチイチ) 国産初の旅客機 日本の空を席巻1964年(昭和39年)8月、初飛行から型式証明取得まで、1号機の試験飛行は 540時間、2号機は 460時間を経て、運輸省(現 国土交通省)の型式証明を取得、国内線向けの出荷と納入を開始しました 1964年(昭和39年)9月9日、全日空にリースされた 2号機(JA8612)が、東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸、日本の航空機産業復活をアピールしました 1965年(昭和40年)3月30日、量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まり、9月にはFAAの型式証明も取得して輸出の体制も整えました 1965年(昭和40年)4月10日、量産型2号機JA8639(S/N2004)が、民間航空会社への最初に納入として、東亜航空に引き渡されました 1965年(昭和40年)4月1日、日本国内航空(当時)(日本エアシステムの前身の1社)(現在JALに統合)が、1965年(昭和40年)3月11日に日航製からリースされた試作2号機を羽田-徳島-高知線に就航させ、日本の定期航空路線で、YS-11の運用が開始されました この試作2号機は、全日空が聖火の輸送で使用したものであり、日本国内航空では自社塗装に塗り直し、「聖火号」(初代)と命名して就航させています その後、YS-11は、1973年(昭和48年)までに全 182機が生産され、一時は国内線を席巻する程にまで成長します スピード、静穏が求められる時代へYS-11はプロペラ機でしたが、プロペラ機エンジンとして当時主流であった、ピストン運動による レシプロ ・ エンジンではなく、現在でも幅広く使われている、タービンの回転運動を利用し、これに減速歯車機構を介してプロペラを回転させ、プロペラによる推力と排気口から出ていくガスエネルギーによって推力を得る、革新的な ターボプロップ ・ エンジンでした YS-11のエンジンは、当時は今ほど騒音が問題視されていなかった為、騒音はあまり抑え込む設計となっていませんでした YS-11はプロペラ機の為、その巡航速度はジェット機の約半分程度の時速 約 470kmで、その「遅さ」を利用し、「ポールスター」や「ムーンライト」と名付けられた夜行列車ならぬ「夜行フライト」が運航され、夜の間を機内で寝て過ごしたい多忙なビジネスマンなどに重宝されました が、やがて、夜間に大きな音を立てる旅客機騒音が問題視されるようになり、また、スピードの効率を求める時代の流れにも合わなくなり、倍近いスピードのジェット旅客機にとって代わられていくことになります 警報装置の義務化で瀬戸際に騒音等環境問題とスピード効率が重要視されるようになり、YS-11は衰退していくことになるのですが、決定的に、YS-11を民間航空の世界から撤退せざるを得なくしたのが安全性の問題です 2001年に、国内の旅客機には、TCAS (Traffic Alert and Collision Avoidance System=航空機衝突防止警報装置)搭載が義務化され、YS-11にこのTCAS装置を載せる改良を加えるのは、改造費用が嵩み、採算がとれないと判断され、また、YS-11を製造していた日本航空機製造の経営も芳しくありませんでした そして、2006年までの経過期間の終了をもって、同年までに全機が日本の民間航空から撤退、機体の老巧化により海上保安庁から 2011年に退役、残るは、航空自衛隊の輸送機運用と海外での運航のみとなりました |
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